2006年01月18日 |
(by Hideki - かりん)交わり、ふれあい、わかちあい:障害児との交流教育 |
Life Design |
「普通クラスとの交流」…これは、特殊クラスに通う自閉症児の親なら、おそらく多くの
人が抱いたと思います。実際に私自身もそのことを思っていました。
詳しくは、過去の記事:【葛藤】
http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-37.html
またToshi さんのブログ「教育の窓・ある退職校長の想い」の中の「人権教育(3)交流
教育」という記事にトラックバックします。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/358490.html
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/345294.html
そんな、障害児と健常児との交流について、あらためて感じたことを今回まとめてみま
した。
続きは、こちら↓
■■■ 障害児をもつ親の気持ち
普通クラスの子との交流が欲しい、
…どんな交流か?という具体的なものは描けてなかったのですが、ただ漠然とそんなこ
とを私は思っていました。マリオが小学校に上がるときの話です。
それは、以前も触れたのですが、
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他の子と同じこと、普通であることに、殊更固執する必要があるのだろうか?
普通でなくたって、世間並になれなくたって、幸せにはなれるのではないか?
他の子と比べて遅れててもいいじゃないですか
…以前はできなかったことが、できたということを喜んであげよう
そんな良いところ、好きなことを、見つけてあげる事
そしてどんどんと伸ばしてあげる事の方が重要なんじゃないでしょうか?
そして、何よりも、
親と子の心のつながりがしっかり結ばれてる事が大切なのではないでしょうか?
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こんな「普通ということへの呪縛」への戒めという思いを抱きつつ、一方では下のよう
な「隔離される不安」というものを根強く抱いていました。
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「特殊クラス」という特殊な場所に、厄介者を追いやってるみたいで。。。
ちょうど、みかん箱の中の傷んだみかんは、別にしてどけないと、他のまっとうなみかん
も傷んじゃうから、だから箱から選別して別の袋に詰め替えちゃう、
…そんな、世の中から「隔離」しちゃうような感じが、とてもイヤで、
そんなところにマリオをおいちゃうことが、どうにも許せなくて。。。
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こんな気持ちが入り混じった中で、私としては、自然体で障害児と健常児が触れ合える、
そのような環境の学校を探していたように思います。
そんな中、小学校就学時の見学したA小学校は、普通クラスの子が休み時間になると
「K先生?」と言いながら遊びに来るようなクラスでした。そして、K先生のまわりに、
自閉症の子も普通クラスの子も自然にあつまり、穏やかに遊ぶ、そんなクラスだったの
です。
…それが、遠いけれどマリオをA小学校に入れよう!と決めた一番の理由でした。
だけど、A先生がマリオが入学するときに入れ替わりのように転任して、あらたにKW
先生が着任すると、様相が一変しました。(過去の記事を参照)
【ダメな先生】
http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-36.html
そんなある日のことの出来事を、かりんがメモしていました。
○月×日
昼休み、大勢の4年生が遊びに来た。そしてボールプールのボールを投げて遊び始めた。
2,3人が来て遊んでる分にはまだいいが、もう教室から溢れんばかりの子供たちが大騒
ぎでボールを投げだした。
かなり危険な状態なのに、KW先生は全く無視でクラスの子の面倒も見ないで、自分の仕
事をしていた。4年生は大騒ぎの興奮状態!うちらのクラスの子は端っこで固まってる。
もうこれ以上は危ない!と私が思った時、たまたま他の先生が気が付き、「こらーっ!お
前らここで何やってるんだぁー!」と叱ってくれて、子供たちは廊下に・・・
そして、知らん顔してるKW先生に
「どうして止めてくれなかったのですか?」と言いました。
するとKW先生は
「マリオ君のお母さんが、普通学級の子たちも一緒に遊ぶといいといったので」と言う。
たしかにそんな様な事は言いました。
しかしこれは違うだろ!子供たちは勝手に遊んでるだけだし、うちらのクラスの子は怖く
て固まっている。
http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-38.html
同じクラス、同じ子ども達…なのに、ほんの数ヶ月しか違いがないのに、ここまで違いが
出てきてしまったのです。
実は、交流といっても、ただ顔を合わせる機会をもうけるだけじゃ、ダメなんですね。
けっして無理強いという名の指導をするのでなく、かといって放置するでなく、自然な
形でそっと肩を後押しするような、そんな「導き」がないとうまくいかないのだと思う。
トラバ先のToshiさんがやってこられたような、そんな自然なふれあいは、まさに理想的
なものに感じます。
⇒http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/345294.html
もうひとつ、上述のK先生のように、最初のとっかかりとして子供達が先生を好きにな
ることから始まる面があるのではと思う。そして、その先生がいる特殊クラスが好きに
なって、特殊クラスにいる子どもも好きになるということが多くあるように思う。特に
小学生の場合、先生が媒介となる部分がとても大きいのですよね。
ついでに言うなら、実はうちの場合はいつもこれなんです。カリンが周りの子ども達と
まず仲良くなり、そしてマリオ共々馴染みになるという感じです。
■■■ 相手にかける負担
でも、一緒に共有する時間を増やす・空いている時間(休み時間)を使う、という程度
ならさほど問題にならないのですが、これに「負担」?「迷惑」といった要素が加わる
と途端に難しい局面になってくるようです。
障害児は、健常児なら当たり前にできることが、できない。自閉症児の場合は、当たり
前な言葉が伝わらない事が多い。ましてや気持ちが伝えることは、ホントに難しい。
だから、こちらの意図・やって欲しいことが自閉症児に伝えるには手間がかかる。感覚
過敏やこだわりから、色々と気をつかわなきゃいけない事も多い。逆に自閉症児の意図
・やりたいことを汲み取りきれない事も多く、誤解してしまいがち。やってはいけない
とされている事を何度もやってしまうから、警戒され倦厭されてしまう。
手間がかかるという負担感、訳が分からないから何か危害を加えられるかもという恐れ、
それらのマイナスに作用する力が大きくなると、知らずと気持ちが逆に働きはじめるの
は致し方ない話だとも思う。
昨年末に放映されたTVドラマ「1リットルの涙」。不幸にして不治の病におかされて、
まだ15歳なのに、日に日に身体能力や話すことすら衰えていく、そんな実話の少女を
もとにしたお話でした。
その中に、何とか今までと同じようにクラスの中での生活を可能な限り送りたいという
主人公・亜也の思いに、親だけでなくクラスメートたちが応え、協力していくという話
がありました。出迎えに早朝校門でまち、階段を時間をかけて登り、亜也を助ける友達。
でも、真っ先に親達が苦情をとなえる。「授業に支障をきたしている」「まわりに迷惑
をかけてまでもなお、なぜ一緒にやるのか?」
結局は、負担に耐え切れなくなった子ども達自身が、引導をわたす形になる。
フィクションなんですが実話を元にしているだけに、激しく身につまされました。
実は、「光とともに」というドラマ(これも実話を基にしてますが)の中でも、似た様
な話があります。学校が進める障害児と健常児が一緒に活動すること・勉強することに
対して、健常児の親から疑問が出てきました。「障害児の親からすれば、そうしたいの
は分かるが、はたして学校あげてまでもする必要があるのか?」「授業を進めることの
方が大事では?」
個人的には、そこまで他の子どもや親御さんにに負担をかけてまでもして、進めたい、
という気持ちにはなれないです。やはり申し訳ないという気持ちが先にたちます。
だけど、いやだからこそ、担任の先生だけは味方でいて欲しいと思う。
ある障害児の親が、担任への連絡帳に「見捨てないで欲しい」と書いてきたという話を
聞いたけど、その気持ちは痛いくらいにわかるのです。
交流教育って、何のためにするのか?
もし、障害児のためにするものだけなら、障害児の親としては、
「許される範囲内でお願いします」という以上のことはいえませんです。
だけど、交流教室って、本当にそれだけのためなのでしょう…か?
■■■ 障害児へのまなざし
先日のNANAさんのコメントに「社会的弱者」ってどうも釈然としないというものが
ありました。確かに、言葉は適切じゃなかったかもしれません。月山の山中鹿之助じゃ
ありませんが七難八苦が人を強くするという意味では、障害者=ハンデを背負った人は
逆に「強い人」が多いとも言えますね。
ただ、普通の人にはできて当たり前のことができないという時点で、競争という視点で
いえば、劣っているということになると思う。障害者の中にはその逆境をバネにできる
ような強い人が少なからずいますが、全員が全員そういうわけではありません。生まれ
つき困難を抱えている・劣っているということは、現状では社会の中で弱い(≒不利な)
立場になります。
しかしながら、ここで誤解しちゃいけないのは、ある特定の部分の能力で劣っていても、
「人として劣っている」というわけじゃ決してないということです。
私は、「普通」「当たり前」のことができない、だけど活き活きと生きて、その「生」
の中に個性と才能と成長を感じられるマリオから、「普通」という言葉の曖昧さ・無意
味さを教えられました。普通より劣っていてもいい、当たり前の事ができなくてもいい。
マリオ自身が、活き活きと生きていることが、まずは何よりも大切なんです。
単純な社会の中の「競争」という軸では劣っている人…負け組となるのかもしれないが、
実はそれはあまり大したことじゃない。
だから、社会的弱者といっても、障害児に、マリオに「あわれみのまなざし」を向けて
欲しくない。
韓国の映画「マラソン」の中で、障害児は迷惑かけるのだから施設の中にいれておけ!
と毒づいたOLに対して、母親が「この子は、あんたなんかがひっくり返ってもできな
い力があるんだ」と怒鳴り返しましたが、この気持ちはすごく良くわかる。
実際に、私自身も本当にそう思っている。
自分とは違ういろんな人がいて、中には自分よりも(ある面での)能力が劣る人がいて、
だけど、その人は自分より劣っている人ではない。自分と同じ人間なんだということ。
それだけは、分かって欲しい。感じて欲しい。
■■■ 損得勘定から徳の積み上げへ
正直いって、人間って打算的な一面があると思う。
自分に、自分達にかかる、負荷・負担・マイナス面と天秤にかけてものごとを判断する。
これは当然ですよね。私だってそうです。「そこまではやってられないよ」となります。
だから、その天秤の反対側に乗るものが問題になってくる。自分達が得られる、報酬・
対価・プラス面とはなにか。
健常児が障害児と交流することで得られるものはなにか?
…それが、無い。
だから、「授業に支障が大きいから」とか、その負担・負荷にばかり目がいっちゃう。
ところが、よくよく思い起こしてみると、こういった打算では計りきれない「思い」と
いうものが人間には良くあるんですよね。
……「やらずにはいられない」「見逃せない」:そう感じるときってありませんか?
こういう思いは、人によっては「偽善」ととるのかもしれないが、私はもっと「衝動的」
で「純粋な気持ち」である場合が多いのではと思う。というのは、それは自分の思う
「あるべき姿」に照らし合わせてでてくる思いなんだから。
できない人、困っている人がいたら、すっと手を差し伸べる。
さっき、「あわれみ」は要らないといいました。困っている人を助ける気持ちのひとつ
にあわれみという心があるのは確かです。私はそんな気持ちそのものを否定するつもり
はありません。でも、やっぱり自閉症児にむける気持ちに、あわれみは欲しくないのです。
私は、困ってる人を助けるのはあわれみだけじゃないと思う。情けは人のためならず、
とはいいますが、困っている誰かを手助けしてあげると、その人の笑顔や、感謝の気持
ちや、そういった色々なの相手の発する何かで、自分自身が豊かな気持ちで満たされる
ことってありませんか?
誰かの役に立つ事って、自分も嬉しいのですよ。仮に自己満足かもしんないけど。
そんな相手への「おもいやりの心」って、あわれみとは別のものなんですよ。
そして、思いやりって、相手に求めるものではなく、相手に与えるものなんです。
結果として、皆が思いやりを与えあえば、皆が幸せになります。
できない人に、自然と自分の手を差し伸べてあげられる、そんな、他人をおもいやる心。
他人に勝つだけでなく、他人の役に立つことをしていきたいという、そんな生き方。
そういったことを、私は障害児を通じて、教えられ、感じさせられました。
自分にとっての当たり前が他人には当たり前でないということが、ひとへのやさしさの
素となりました。
一言でいってしまえば、「徳」の教育。「志」の教育。
それが、障害児との交流をつうじて、健常児に学んで欲しいことなのではないかと思う。
もし障害児がいなかったら、ほかの事ででも良いんです。人を思いやり、「徳」を高く
する教育をさえしていってもらえたら。
まあ自閉症児の親としては、元来誤解をされやすい自閉症児なんですから、小さな子供
の頃から自閉症児に馴れ親しみ、理解してもらうようにしていって欲しいのですけどね。
■■■ 障害者が自然でいられる社会
どこまで本当のことか自信はありませんが、ある人が言っていました。欧州の人が日本に
来ると驚くのだそうです。日本には障害をもった人が少ないのだね!っと。でも、それは
街の中に障害者がいないだけ…街の中に障害者が出ていけないだけ。対して欧州では、
もっと普通に、自然に、街中に障害者が出ていっているといいます。
普通クラスの子との交流は、冒頭にも書いたように、多くの自閉症児の親の願いだと思う。
それは、「普通ということへの呪縛」という要素も多分にあることは否定しない。
だけど、それだけではけしてないと思う。
「障害」をもっていても、普通に、世の中に、街の中に出て行くことができる。
そんな、社会になって欲しい、という切実な願いがあるんです。
障害が障害で無くなる社会、
いや、障害者が障害をことさらに意識しなくても良い社会になって欲しい、
そんな社会にしていかなくてはいけない、心からそう思います。
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