2008年02月10日 |
(by paco)死刑制度についての意見交換 |
Global Eyes |
(by paco)先週のコミトンで死刑制度について書きました。
この記事に、読者のI.M.さんからメールをもらいました。以下、やりとりです。
▼I.M.さん
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死刑の存廃は、中学生から関心を持っていて、大学の法学部で専門的に勉強して以来、心のどこかに引っ掛かりを持ってきたテーマです。
pacoさんご指摘の2点目から5点目は、価値観や学説によってどちらにでも転びうる論点です。
2点目の刑の残忍さについては、死刑よりも終身刑の方が却って残忍とも捉えられます。刑務官にとっても、更生の望みのない終身刑の受刑者の処遇は更生意欲の向上に欠ける点で困難を極めることが予想されます。
3点目の遺族の感情については、米国で、受刑者が電気ショックや薬物注射による処刑に立ち会う遺族が現に存在する現実を見ると、死刑によって気持ちが晴らされないと確実には言い切れないように思います。
4点目の反省の可能性を奪うこと、代替手段としての終身刑については、「極悪犯でも終身刑にすれば反省するのか?」という疑問が残ります。また、終身刑は、刑務所実務的にも、更生可能性に著しく欠ける受刑者を取り扱うことになり、処遇の困難性が指摘されています。
5点目の犯罪の抑止については、死刑を廃止した国・地域で犯罪が増加したか減少したかにつき、どちらの見解のデータもあり、はっきりとしたことが掴めていません。
しかし、1点目の冤罪の場合でも処刑してしまう可能性がある、という点に関しては、如何なる反論もなし得ず、学生時代は、私は、この点を根拠に死刑反対説を取っていました。
ところが、社会人になって、1点目の議論を法学部出身者以外の方にすると、「どうも観念的だよね〜」と言って、中々納得してもらえませんでした。結局、3点目の論点で、自分自身遺族になったときにどう考えるか・・・家族が殺されても、犯人を死刑にしないで気が済むか?という所で明確な答えが出せないと、相手に納得感を与える回答を与えられずにいました。
その後、妻を娶り、子供に恵まれ、今ではハッキリと言えます。仮に妻子が残虐な殺され方をしたとしても、だからと言って、犯人が死刑になって良いとは思わない、と。犯人の親族に同じ苦しい思いをさせ、苦しみの連鎖を作り出していく切っ掛けに自分はなりたくないと。
今でも、1点目の論点意外は価値観だと思っていますが、特に、3点目を自分の身に引きつけて断言できるようになりました。
1点目、3点目の観点から、死刑には反対します。
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▼paco
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> 2点目の刑の残忍さについては、死刑よりも終身刑の方が却って残忍とも捉えられま
> す。刑務官にとっても、更生の望みのない終身刑の受刑者の処遇は更生意欲の向上に
> 欠ける点で困難を極めることが予想されます。
この点はまったくその通りですね。コストの問題もあります。殺しちゃったほうが金はかからないですからね。本来はこういう場面は宗教の出番なんでしょうが、日本では効果的な思想があるわけではなく、難しいものがあります。
ただ、酒鬼薔薇聖斗のような少年犯罪の更正を見ていると、少年にはあれだけの更正努力を行って、20歳を過ぎるとあっさり死刑というのは、どうなんだろう、と。成人には成人の更正努力があっていいような気もします。もちろん社会復帰ありきの更正ではないにせよ、社会の中で役立つということをどう理解させるかという方法は、別な方法があるような気がします。
全ての終身刑囚に人としての心を取り戻させるのは無理にしても、更正を促す努力に対して社会が負担するというのは、人間の社会にあり方としてやってもいいのではないかという気がします。
> 3点目の遺族の感情については、米国で、受刑者が電気ショックや薬物注射による処
> 刑に立ち会う遺族が現に存在する現実を見ると、死刑によって気持ちが晴らされない
> と確実には言い切れないように思います。
これを認めると、結局復讐法に戻ってしまいますね。犯人の刑罰の方法によって、カタルシスを得るというあり方を、人間は捨てるという道を選んだのだと理解しています。カタルシスを得るのは事実だと思いますが、それは社会的に認めないということでしょうね。
> 4点目の反省の可能性を奪うこと、代替手段としての終身刑については、「極悪犯で
> も終身刑にすれば反省するのか?」という疑問が残ります。また、終身刑は、刑務所
> 実務的にも、更生可能性に著しく欠ける受刑者を取り扱うことになり、処遇の困難性
> が指摘されています。
これは基本的に1点目と同じですね。困難さの一方で、可能性もある。
僕が思うのは、凶悪犯が犯罪について書いた手記を執筆する機会(あるいは独白の録音でもいいけれど)をつくることは、犯罪防止や犯行の背景の解明に有効ではないかという点です。終身刑囚のうち、何人が内省的に手記を書くかはわかり
ませんが、ほんの一握りでも書いてもらえれば、なぜ犯罪を犯すのか、その理由の解明になります。
僕らの社会は、犯罪者の処罰をもって犯罪の抑止力にしようとしてきたわけですが、犯罪者に至る状況や動機の解明から、犯罪の抑止につなげるのが今のトレンドであって、懲罰優先の今の司法のままでは無理があります。
> 5点目の犯罪の抑止については、死刑を廃止した国・地域で犯罪が増加したか減少し
> たかにつき、どちらの見解のデータもあり、はっきりとしたことが掴めていません。
この点については、データ的にはニュートラルという感じですね。
> ところが、社会人になって、1点目の議論を法学部出身者以外の方にすると、「どう
> も観念的だよね〜」と言って、中々納得してもらえませんでした。結局、3点目の論
> 点で、自分自身遺族になったときにどう考えるか・・・家族が殺されても、犯人を死
> 刑にしないで気が済むか?という所で明確な答えが出せないと、相手に納得感を与え
> る回答を与えられずにいました。
この点の回答は明解で、死刑のない国がこれだけあるということは、納得感は得られるという回答もありだし、逆に、過失の大きな交通事故で運転者が死刑になるべきかという議論をすれば、簡単に答えは出ます。常習の飲酒運転などは別に
して、普通の運転者が異常とはいえない程度の運転(30〜40km/h程度のスピードオーバーなど)で、数人を殺してしまうことは珍しくないく、死亡した人の家族が運転者の死刑を望んでも、現状では死刑判決はありえません。これについては、一定の社会的な合意があるわけで、殺されたから、死刑にならないと納得できないというロジックは、今の社会では成立していないと思います。
ということで、僕が重視しているのは、犯罪者の心理や出自と犯行の関係を解明することで抑止につなげる、ということでしょう。これにはどうしても時間がかかり、死刑相当だからといって死刑に処してしまえば、解明ができません。麻原彰晃の弁護団は、麻原の死刑に反対していますが、その背景にあるのが麻原がまったく口を閉ざして何も話さないため、これでは事件の解明ができない、という問題意識が強いようです。実際オウム問題はほとんど解決しておらず、カルト宗教が犯罪に向かうメカニズムの解明や、それを未然に防ぐ方法はほとんどわかっていません。
長期間の収監の間に、心理学面、宗教面、倫理面などさまざまな角度からinputを行って、犯罪者の心理に訴え、自らの行為を繰り返し告白させることは、意味があることではないかと思います。
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あなたの意見も聞かせてください。
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■コメント
pacoさんにコメントいただきました I.M.です。
pacoさん、コメントありがとうございます!
いただいたコメントから、次の3点の議論の広がりが得られましたので、その点について、考えを述べさせていただきます。
1点目は、死刑の代替措置としての懲役刑に処することにより、本人の更生努力を促すことで、犯罪の抑止に繋がるのではないか、とのご指摘です。
この点は、おっしゃるとおりだと思います。
ご指摘のとおり、終身刑とした場合、どの位の割合の受刑者が更生の意思を持つに至るかは分かりませんが、その可能性を残しておくメリットはあると思います。
なお、終身刑は、受刑者・刑務官等の更生・更生促進のモチベーションにマイナスの影響を与える蓋然性が高いです。したがって、死刑の代替措置としての懲役刑は、更生の程度によっては出所もあり得る道を残しておくのが実際的だと考えます。
2点目は、遺族の感情についてです。これについては、2つの点につき興味を持ちました。
まず、死刑のない国が存在していること等からして、遺族の死刑によるカタルシスを社会的に認めない、とのご指摘です。
私見は、paco さんと同様です。
しかし、指摘したかったのは、逆に、死刑存置国が現に存在し、また、遺族のカタルシスを社会的に認める制度も又現存しているということです。
即ち、「遺族の感情慰撫のための死刑」の考え方については、現状、両論ある、ということです。
もっとも、人類の長い歴史の中で、第二次大戦以降、急速に死刑廃止のトレンドになっていることは確かで、トレンドとして、「遺族の感情慰撫のための死刑」は社会的に認めない方向にあることは認めます。
遺族の感情に関するもう1つの論点は、過失犯の取扱いです。
例えば泥酔してスピード違反を犯していたとしても、「人を殺す」認識を持っていなかったのなら、その認識を持っている場合よりも遺族の犯罪者に対する憎しみは弱いのではないか?というのが、今までの私の考えでした。その点も、過失犯に死刑を適用しない1つの理由になっているのではないか、と考えていました。
しかし、言われてみると、「人が死ぬ」ということでは故意犯も過失犯も同じことです。
とは言うものの、やはり、憎しみの程度は違うのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
3点目は、死刑を廃止した場合のコスト・・・つまり、国民が「税金」という形で、どれだけ負担するのか、という論点です。
これには、死刑の代替措置としての懲役刑による更生努力促進コストの他、遺族の生活保障・慰撫のための補償コストが考えられます。
言い換えれば、これらのコストを犯罪者の死刑によって、現在抑えていると言えます。
そもそも、犯罪者が自らの故意で持って犯した罪に対して、なぜ、国民が税金を払わねばならないのか?という点について、どれだけコンセンサスが得られるかが問われます。
私は、ここでコンセンサスが得られる社会であるかどうかがその社会の文明の程度を測る1つのバロメーターだと思っています。
極悪犯も、彼の意思と関わりなく、社会では一定程度、必然的に存在せざるを得ない。そのことを社会で引き受けて、それでも、極悪犯を合理的に無くす努力を重ね、そして、遺族・被害者には、一種の保険事故に対する補償としての措置を施していく。
それが、現代の文明の程度の1つのバロメーターだと考えています。
結局、私の死刑廃止の結論を支える理由は、
従来から考えていた
・適正手続の確保
・遺族の感情慰撫には他の方法があること
の他に、今回pacoさんからのご指摘を受けて、
・死刑の代替手段としての懲役刑を科することで、
更生の可能性を探る余地を残す
ということが付け加わりました。
また、皆さんからのご意見をお待ちしています。
投稿者: I.M. | 2008年02月10日 22:47
こんにちは、コメントありがとうございます。
迷惑コメントからの防衛システムの関係でコメントを公開するのが手動になっていて、公開が遅くなりますが、すいません。
今回は特に、
> しかし、言われてみると、「人が死ぬ」ということでは故意犯も過失犯も同じことです。
> とは言うものの、やはり、憎しみの程度は違うのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
ここにフォーカスしてコメントします。
以前は、確かにこの違いが明確にあり、だからこそ、交通犯はかなり軽微な刑罰に留まっていたわけですが、常習飲酒運転者による重大事故が増えたことによって、「飲酒運転は危険を承知で法を犯すのだから、こいによる殺人にほぼ近い」という考え方で、危険運転罪が生まれたと理解しています。
この危険運転罪の中に、飲酒だけでなく、重大な違反、つまり信号無視やスピード違反、一時停止違反なども含まれるような傾向になってきて、ゆえに、川口で起きた、「保育園児の列に脇見運転のクルマがつっこんで複数の園児が死亡した事故」も、危険運転罪に当たるという主張がなされていると思います。裁判では、これは業務上過失致死傷で、危険運転罪の要件を満たしていないという合理的な判断をしていますが、遺族感情や世論は合理的ではなく、脇見運転でたくさん(罪のない)子どもが死んだのだから、厳罰で臨むべきと主張します。つまり、「目には目を」の発想が強まっているわけです。
このような事例を見ていると、何をもって故意と呼び、何を過失と呼ぶかはかなりあいまいだと感じられ、「小さな子どもが死んだ」とか、「スピード違反常習者」といったことが、「過失」を飛び越えて「故意」に近い解釈をされかねない危険があり、僕は危機意識を感じているわけです。
同様に、もう少し違う事例を考えてみましょう。危険物を扱う化学工場で爆発事故があり、多数が死亡したという場合、工場の担当者や責任者は過失なのか、重大な故意なのか。事故の危険を認識しつつ、機械の補修をしなかった場合、上記の危険運転罪にかなり近い状況なのに、刑罰は相対的にかなり軽くなっています。「犯人」が個人に特定できる場合には死刑など重罪を来たいし、組織の中の個人になると、その個人に重大な責任があり、事故が起これば多くの犠牲が出る(影響が大きい)としても、社会的には責任者を死刑すべきと期待しない。これは、個人で動かざるを得ない立場の人間を不利にします。
親族を失えば、「自分の手で犯人を殺してやりたい」と考え、カタルシスを得たいという希望はわかりますが、それは今の社会では認められないのだというメッセージを、結局のところ受け入れなければ、文明社会は成立しないところに来ているのではないかと思います。
投稿者: paco@知恵市場 | 2008年02月17日 20:04
故意犯と過失犯の区別の線引きがあいまいになって来ているとのpacoさんのご指摘、よく理解できました。
私も、過失犯に対してまで死刑を心情的に望むような風潮になっている最近の傾向には危機感を持ちます。
工場でのミスに基づく事故について、個人に責任が問われにくい、との論点は、元々は、近代刑法の性格に由来するものです。つまり、犯罪は、あくまで個人が故意・過失に基づいて実行したことについて責任を帰すべきである、というのが近代刑法の元々の考え方です。
しかし、たとえば、暴力団事犯では、ヤクザの親分が子分を鉄砲玉として送り込むケースについて、日本では、「共謀共同正犯」という理論を裁判所がつくり出して、親分をも一定の条件の元で正犯として処罰できるようにしてきました。
このような組織犯罪に対する処罰する考え方が、たとえば、化学工場でのミスによる事故のような場合には、拡張されていない、ということです。
刑法は、元々、「悪いことはすべて罰する」という性格のものではありません。「悪いこと」のうち、それを放置しておくと法治国家として機能しなくなる、と判断されたものだけを取り出して処罰の対象とするものです。そうしないと、厳罰化が自由な社会経済活動を阻害する恐れ等があるためです。
個人的には、化学工場でのミスによる事故の場合にまで故意犯に近い処罰まで要求するのは、行き過ぎのように思います。工場勤務は、飲酒運転の場合と異なり、生活上の必要から就いているケースが多いでしょうし、その場合にも厳罰を求めることにしてしまっては、安心して働くことそのものが阻害される恐れが出て来ることが懸念されるためです。
投稿者: I.M. | 2008年02月17日 21:44